• 宿毛の偉人、吉田茂
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幕末・明治維新期に多くの偉人を輩出した宿毛の街。
宿毛歴史館から北に30m程の場所には、竹内網・竹内明太郎・吉田茂の屋敷だった邸宅が保存されています(現在は別の方がお住まいです)。

1951年9月8日、GHQ占領下の日本でサンフランシスコ平和条約に調印し日本の主権を回復させた内閣総理大臣・吉田茂は、土佐自由党の重鎮で宿毛の偉人・竹内網(たけうちのつな)の5男として明治11(1878)年、東京で生まれました。

実父・竹内網

茂の実父である竹内網は茂がうまれたとき、西南戦争の呼応して政府転覆を企てた立志社(立志社の獄)に協力した咎で新潟刑務所につながれていました。そのため、正妻ではなかった茂の実母は網の親友・吉田健三(横浜の貿易商、元福井藩士)の庇護の下で茂を出産。茂は幼少の頃、正式に吉田家に養子に入りました。
※父親同士の約束により、茂は出生前から吉田家の養子になることが決まっていたということです。

長兄・竹内明太郎

吉田茂の実父である竹内網は14人の子どもに恵まれました。なかでも有名なのが、吉田茂と、長兄である竹内明太郎です。
竹内明太郎は日本の工業技術の発展につとめ、炭鉱経営などのかたわら早稲田大学理工学科の開設、高知工業高校の設立、唐津鉄工所の設立、小松鉄工所(後の小松製作所)などを開設。明太郎が支援した日本初の純国産自動車DAT号は日産自動車の礎につながるなど、日本の機械工業の発展に大きく貢献しました。
※DAT号の「T」は竹内明太郎の頭文字です。