• 藤林寺の野菜祭り(ヤーサイ)
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宿毛市平田町の藤林寺(とうりんじ)で500年以上つづくお盆の祭り「野菜まつり」(通称:ヤーサイ)。長くて太い竹の先に野菜や新穀をくくり付け、土俵のまわりをまわる「竹回し」や、きらびやかな時代衣装を身にまとい「志賀段七」や「曽我兄弟」などの歌舞伎の演目を題材におどる「口説き盆踊り」が名物。昭和38年に宿毛市無形民俗文化財に指定されました。
 

祭りのハイライトである「口説き盆踊り」は、その本格的な衣装と、刀や槍などの小物、隈取をほどこした踊り子の化粧が夏の宵に幻想的に映え、とても勇壮で美しい踊りです。「竹回し」は、房家の時代に平田の領民が捧げものをするさい、「身分の高い方に直接お渡しするのはおそれ多い」として竹の先に結んで進呈したことが由来だとも、一条家に京都時代から伝わる施餓鬼行事が由来だともいわれる独特な行事。
500年以上、地元民によって大切に伝えられてきた伝統の祭り。毎年8月16日におこなわれるので、ぜひご見学にお出かけください。

藤林寺:戦国時代に活躍した土佐一条家の初代当主、一条房家(いちじょう ふさいえ)の菩提寺。房家没後の1539年建立です(享年51歳)。土佐一条氏の居城は四万十市の中村城。平田は当時から幡多随一の穀倉地帯で、土佐一条家の重要な領地のひとつでした。一条房家は生前、この山に咲きほこっていた藤の花のあまりの見事さに感動し、自分の菩提寺を建てさせた、といわれています。曹洞宗の寺院。
 

★土佐一条氏・・・室町時代の終わり、朝廷5摂家のひとつであり京の一条通りに居をかまえていた超名門貴族・一条家の長子、一条教房(のりふさ)が応仁元年(1467年)に起こった「応仁の乱」をさけて翌年、領地である幡多荘(はたのしょう)に下向してきました。土佐一条家は教房の子である一条房家を初代当主として戦国時代の土佐を支配し、4代当主の一条兼定(かねさだ)が長曾我部元親に敗れるまで土佐7雄の盟主として君臨しました。1575年(天正3年)、四万十川の戦いで事実上の滅亡。
※一条兼定は敗戦後、宇和島の戸島に幽閉されて1585年、44歳の生涯を閉じます。

★一条兼定(かねさだ)とお雪の悲恋・・・宿毛市平田町には、土佐一条家の4代当主で、実質、最後の当主となった一条兼定と、庄屋の娘・お雪の悲恋物語が残されています。
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兼定が平田に鷹狩に来たさい、水を飲むために立ち寄った庄屋(源左衛門宅)で、そこの娘・お雪に一目ぼれしてしまいます。兼定22歳、お雪17歳のことでした。その後、兼定は毎日のように平田に通い、立派な屋敷(平田御殿)まで建てて、放蕩を尽くしました。あるとき、遊びほうけて政務をおろそかにしている兼定を、忠臣(筆頭家老・土居宗珊そうさん)が諫めます。兼定は逆に、これを手打ちにしてしまいました。いよいよ手に負えない、ということで、家臣たちは平田御殿にでかける兼定をとらえて幽閉し、隠居させました。お雪は、兼定に二度と会えないことを悲しんで、哀れ、川に身を投げた・・・
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というものです。一見、醜聞のように聞こえる話ですが、地元では“悲恋”として語り継がれ、歌にもなり、踊りにもなって、親しまれています(ヤーサイの口説き盆踊り)。

↑お雪さん供養塔(入水の地)