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宿毛市山奈町にある「浜田の泊り屋」(とまりや、別名やぐら)は、中世~近代の日本、特に西日本に見られた風習=“若衆組”(わかしゅうぐみ)の拠点となった建物です。

若衆組とは、農村・漁村などの集落の若者が寝泊まりしながら警備や集落の運営などを学んだ集落経営のシステム。もともとは戦国時代の一村一域(いっそんいちいき)の頃、見張りのために立てられた“やぐら”が起源だといわれており、かつては幡多各地に180カ所もあったということです。しかし、明治の末頃、風紀を乱すなどの理由によってつぎつぎに取り壊され、今では宿毛市山奈町の芳奈地区に、わずか4軒を残すのみとなっています。
江戸時代~幕末の農村の習俗をうかがう貴重な資料として昭和32(1957)年、国の重要有形民俗文化財に指定されました。

浜田の泊り屋は、桁行2間、梁間2間、木造高床式平屋建入母屋造り桟瓦ぶき、4隅の柱に栗の天然木を用いるなど、風格あふれる立派な建物。高床式の床にあいた穴に、はしごをかけて出入りします。建造は幕末頃。
 
※床下には、若者たちが力くらべをして遊んだ「力石」が今でも放置されています。
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住所:〒788-0785 高知県宿毛市 山奈町芳奈字宮の下1307

【浜田の泊り屋がなぜ残ったか?】
かつて幡多地域には、約180カ所も泊り屋がありました。しかし、明治末になると、そのほとんどが取り壊されてしまいました。理由は、「風紀を乱すから」。明治以降、幡多でも夜学が盛んになり、泊り屋よりも床の低い“公会堂”が各地に建てられるようになった一方で、それまで武家社会の規律であった「男女7歳にして席を同じくせず」の考え方が庶民にも広まり、風紀がきびしくなった時代でもありました。そのような流れの中、しばしば農村・漁村の男女交際の場となっていた泊り屋は、取り壊されていったのです。
では、なぜ浜田の泊り屋は、取り壊されずに残ったのでしょうか?じつは、浜田や芳奈の泊り屋には、ある“掟”がありました。その掟とは・・・、“女人禁制”。
なぜそんな掟があったかはナゾですが、風紀を乱すもとである“女子”が入れなかったから破壊をまぬがれた、ということです。
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芳奈の泊り屋
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浜田の泊り屋から南に500m程の所に、芳奈の泊り屋も残されています。