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♪ 雪やこおれ、あられやこおれ、荒瀬の川がとまれやこおれ。

この唄、高知の人なら聞いたことがあるかもしれません。江戸時代初期、宿毛の荒瀬の川(=松田川の荒瀬山の下あたり)に堰がつくられたとき、賦役に駈りだされた農民たちが歌っていた唄です。このときつくられた堰は、松田川の「河戸の堰」。工事を指揮したのは、江戸時代初期の土佐藩家老、野中兼山です。
唄は「寒い冬でも工事に駆りだされ、雪のふるなか冷たい水にもぐって作業しなければならない。いっそ川が凍ってしまえば、まさか兼山さまも工事を止めるなとは仰せにならないだろう。川よ、凍れ」という願いをうたったもの。兼山の執政の過酷さがうかがわれるエピソードとして知られています。

野中兼山は、土佐藩の2代目藩主・山内忠義(ただよし)に仕えた政治家です。藩政改革を命じられた兼山は、ハマグリの放流や林業の開発、治水工事、港湾整備など多くの事業を手掛け、当時20万2600石だった土佐藩の石高を倍増させるほど、大きな功績を残しました。しかし、そのやり方がとても強引で苛烈だったため、藩内には多くの不満がつのっていました。
兼山を重用した藩主・忠義が隠居すると、反対勢力によって弾劾され、失脚・隠居を強いられます。失意の兼山は隠居後ほどなく急死。しかし、兼山に反発する政敵や領民の恨みは晴れず、兼山の遺児8人が、罪人として宿毛に幽閉されました。
遺児たちは、男子がすべてに死に絶えるまで40年もの間、外にでることも許されず、竹矢来でかこまれた屋敷で孤独な日々を送りました。その残酷な報復から、政敵や領民の恨みの深さがうかがわれます。しかし一方で、親の罪をこうむって人生を終えた遺児たちの話は、土佐の歴史の悲劇として悲哀をもって語り継がれています。

野中兼山の養母よね は宿毛の初代領主・山内可氏(やまうち よしうじ)の娘。そして兼山の正妻 市は可氏の孫です。宿毛で幽閉を受け入れた いきさつ には、外に出してやることはできなくても、せめて不自由させないよう面倒をみてやりたいという、可氏の親心があったのかもしれませんね。
兼山遺児たちの幽閉場所は現在の宿毛小学校のプールの場所。小学校の敷地内には、彼らをしのぶ碑がたっています。

遺児たちは東福寺の西山墓地にあります。

兼山遺児幽閉地・碑(宿毛歴史館HP)
兼山遺児と、山内可氏の墓(東福院)(宿毛歴史館HP)